Happiness arises, radiating in vibrant hues.

『幸せが生まれ、鮮やかな色合いで輝く』ことを願う場所

ANGEL TYPE

「貴方は孤独に何かを期待しているのじゃないかな。誰からも干渉されないこと。

誰にも迷惑をかけないこと。そんなことを願ってない?」

「それは……」

「それはある部分を取れば間違いじゃないわ。

でもね、きっと、孤独には貴方の欲しいものは何も無いと思うわ」

 冒頭で引用した作品『ANGEL TYPE』 は、私がプレイした18禁ゲームの中で特に孤独が丁寧に描かれていると感じている作品だ。
ここでは、この作品と『孤独の科学  人はなぜ寂しくなるのか』を通じて、孤独とさびしさについて書いていきたかったんですが、ANGEL TYPEの感想9割、他要素1割と相成りました。書いてるうちに孤独を引き合いにして、ANGEL TYPEについて書きたいだけだと気づいたため、それならいっそとバッサリといきました。
つまり『孤独の科学  人はなぜ寂しくなるのか』を結果的にはえろげの感想書くためだけに読んだことになるんですよ。カコイイですね。


まず初めに人が孤独感を覚えるときどういった影響があるのだろう。『孤独の科学』では以下のように書かれている。

 

孤独は私たちから自己調節と実行制御の機能を奪い、自主抑制と粘り強さを奪う。認知と感情移入を歪め、そのせいで社会的調節に貢献するほかの認識も支障を来す。
その中には、社会的同調をする上での妥協と互恵、適切なさじ加減で行われる服従と支配、仲裁、社会的制裁、同盟の形成などが含まれる。

 

孤独感により、私たちは認知が歪む。その結果、社会、周囲の人間の言動を正確に認識することができなくなる。より社会から拒絶されているという思い込み(認知の歪み)が強化されるのだ。その原因が、たとえ他者への配慮といったことができなくなっているという自分に原因があるものだとしても、それに気づくことはできない。

そんな厄介な孤独感というものをなぜ人は持ってしまうのか。

 

人間と人間を結びつける目に見えない力を注意深く眺めてみると、さらに深遠なことがわかってくる。私たちの脳も体も、別個にではなく集団で機能するよう設計されているのだ。
それが群居せざるを得ない種の本質だ。程度は違っても、誰もが他者を必要としており、その欲求を否定して機能しようとするのは、私たちの設計仕様に反する。

 

正確さを捨てて雑に書くと、私達は自分だけの利益を追求す個の種ではなく、集団として生きることに道を見つけ、その枠の中でうまく生きていけるように進化した。とかそんな感じ。つまり社会が私たちを人間たらしめているとも言えるかもしれない。

では、孤独であることを求めてしまうタイプの人間は社会に反している? もちろん、そんなことはないはずだ。孤独であることを求めてしまうのは社会に属しているからこそであり、社会に属していなければ求める必要もないからだ。(言葉遊びだけど)

 

ANGEL TYPEの主人公である藤代尚はそういったタイプであるように思う。ANGEL TYPEの舞台は18禁ゲームでは珍しい夜間の定時制高…学校が舞台だ。彼は初めは昼間の普通科に通っていたが、メンタルを崩した(社交不安障害っぽい)ことにより、夜間の定時制に移った。

彼は定時制に通うことで幾分か精神的に落ち着きを得ることができた。しかし、認知の歪みのようなものは残り続けている。

の中で感じる孤独というのは、最初から孤独でいるよりも嫌なことだった。希望が全く見えないならそこを捨てるという決心も出来る。
だが、かすかに見える希望にすがり、いつまでもだらだらとそれにしがみついていては、その先にあるものは緩慢な死しかない。だから僕は自ら一人の孤独を選んだのだ。


とても歪んでいる。

けれど、この飛躍した歪み方に親近感や言葉にできない良さを感じてしまう人がいるのではないだろうか。ANGEL TYPEという作品は主人公藤代尚の内省的な面が数多く描かれている。ヒロインとのえちぃシーンよりも数が多く、丁寧に書かれているのでは? と思うくらいに。

内省的な描写が多いと、どうしてもウジウジした主人公過ぎて、見ていてイライラするといったことが起きてしまう。けれどANGEL TYPEの内省描写は儚さと詩的美しさに満ちていてイライラを感じさせない。

 

僕達はもう子供になることは出来ない。世の中の全てが愉しく、自分はどんなものにでもなれるといった素敵な幻想を抱いていたあの頃には、もう戻れない。
僕達は道理と無理というものを知り、己の無知を知り、世界の無常さを知ってしまった。
僕たちは夢を見る。子供の頃の夢を。正しきものも悪しきものも知らず、世界をありのままに見ていた頃の夢を。それは決して戻ることの出来ない幻。それ故に、綺麗で、いつまでも僕達を悩ませる。

 

綺麗。

藤代尚は自分を囲む周囲の世界と距離を置いて生きていることを、周囲に隠して日々を生きている。いや、正しくは『隠せていると思って』生きている。しかし、それはほんのわずかなやりとりをしただけの人間にもわかってしまうほどに、外側へ滲んでしまっている。プロローグに出てくる名もない少女に気づかれてしまうほどに。

 

私は、あんなほんの少しだけの会話で、彼の見えない部分を理解してしまった。

自分以外を拒絶し、自分をも否定しているような彼のたどる道のりは。

決して平坦なものじゃない。

 少女の見抜いた『自分をも否定している』、これが彼の根底にあるものだ。彼は決して自分の持つ思考に正しさを覚えない。思考してもすぐにそれを否定し、間違った考えであるとしてしまう。自分を否定するという行為。
それは自分自身がどんな人間であるかをどんどんわからなくさせ、アイデンティティを歪めていく毒だ。そして、その毒はとても甘い。その毒は飲めば飲むほど自分を酔わせる。酔った先にあるもの。そこには何もないと分かっていてもやめることはできない。

彼は自分がなぜそう考えているのか。なぜそうしたのか。相手をどう思っているのか。これらのことについて『わからない』と考える。それはそうであろう。自分の中にあるべき柱を全て自分で否定しているのだから。

自分の中で答えを出すために必要なことは否定だけではなく、肯定も必要だ。そういった当たり前ともいうべきことが彼はできなくなっている。彼が望んだ孤独の先で得たものがこれだ。

彼自身も答えが出せないといったことはわかっており、それを『呪い』としている。呪いの生まれた過程は私が考えたものと違うけれど。

 

矛盾する思考を持つことはそんな難しいことじゃない。他人を誤魔化してきた人間にとってはそんなことは容易い。自分を誤魔化すことは世界で一番簡単なことだ。だからこそそれは禁忌なのだ。
僕は禁忌を犯している。それ故にたぶん僕は呪われているのだろう。
自分では答えを見つけ出せない、そんな呪いを


そんな彼もヒロインと出会うことによって徐々に変わっていく。個別ルートでは共通して彼は自身が臆病であることを相手に伝える、またはそれを認める。自身の本当の姿を伝えることのできなかった彼にとって小さいけれども大きい変化だ。

彼に必要だったもの。それは自分自身を出しても問題ないと信じられる相手の存在だったのかもしれない。それを得るためには人と関わり合うための勇気のようなものが必要となる。その勇気の糧となる自信。それが彼には欠けていた。その自信を彼はヒロインたちと少しずつ少しずつ関係を進めていく中で得ていく。

 

『何かあるのだったらいつでも相談に乗るよ』
馬鹿なことこの上なかった。自分の問題を片付けられない者が、他人の問題を片付けられるものだろうか。笑いすぎて腹が痛かった。
そしてそれを言わずにはいられなかった自分を嫌悪した。

 なんて考えていた彼が

「話を聞くだけなら——いつだってお相手になるよ。僕は独りなる者の相談役だからね」

 と人に言えるようになるんだから、人との関わり。
お互いに信じあえる関係とはすごいものだ。

この作品にはEDを迎えクレジットが流れる前にある言葉が流れる。

あなたは自分の中の天使をみつけることが出来ましたか?

 天使には出会うのではなく、見つけるのだ。それを忘れずにいたい。

 

ANGEL TYPE

http://www.minori.ph/lineup/at/index.html

 

『孤独の科学 人はなぜ寂しくなるのか

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