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生きててえらいは限定的に

月一回は記事書こうと思ってるんですが、8月はバタバタしがち、かつ法事もあったりなんなりで気づいたら8/31でした。この「なんとか今日中に一つは記事書くぞ」という気持ち、夏休み最終日に夏休みの宿題を全力でやっていた小学生時代を思い出します。

とはいえ、書くこと(書けること)がなんもなくてね。
なので、ますとどんに書いたこと振り返って深堀りしようかなとか考えてたら、『生きててえらい』について書いてたので、これについて書いていきましょう。リンクポストしない系の記事になります。

この言葉を伝える対象って基本的に自分が好意を持っている相手(少なくとも悪感情がない)だと思ってるんだけど、どうなんでしょうね。少なくとも悪感情持ってる人間に対しては私はちょっと言えそうもない。

見ず知らずの人に「私は今これこれこうで辛いんです」という話をされたときの返しとして、少なくともインターネット界隈では一般的、テンプレート的な言葉である「うんうん。生きててえらい」を言うことはあるかもしれないけど、実際に言えるのはやっぱり自分が好意を持っている相手だけであり、それ以外の人には言わなくていい言葉なんじゃないかなと思います。人生その程度の無自覚な選別はあっても別にいいという言葉。
博愛精神を重んじたり、主として生きているなら、そこは誰に対しても言わないとダメだろうけど、そこまで崇高な精神を持って生きている人間はあんまいない気もします。でも実は結構いて、むしろそっちの方が多数派だったらどうしよう。博愛の精神の下、攻撃はせんでくれよな。

インターネットを長年続けていると、やっぱり何人かは自死を選んだ方が周囲にいるんですが、そういった話を見た時に真っ先に思うことは『それが最適な選択であったことを願います』というものです。

これ自体はTwitterで誰かが書いているのを見た(誰が書いたかは覚えてない)んですが、インターネット上で見る自死に関するコメントで一番しっくりかつ自死者に対して的確なコメントだと思います。肯定するでも否定するでもなく、ただ事実に対して気持ちを寄せている感じが特に。

私が過去そういった気持ちをしょっちゅう持ってたからというのもあるんですが、少なくとも否定はしたくない。ただ、社会倫理、世間体のようなものはインターネット上でもやっぱりあり、それに対して肯定的なコメントを寄せることは禁忌めいたものがあるため、その回避策として上記『最適な選択』に全てを込めている感じはあります。

なんかそれっぽい記事になったね。
「生きててえらい」を誰かに伝えることで、誰かの自死を防げるならそれはそれで素敵なことだとは思います。でも、その対象はあくまで手の届く、届けたい範囲の人だけでも別にいいんじゃないかなとも思うという話です。

選択は人間が生きている限りし続けなくてはいけないもの(細かいこと言うならご飯何食べようも選択だし)ですが、その選択をする際に自分が一番何を大事にしたいのかは一番考えないといけないのかなと思います。私の場合、それは『自身の納得感』とかそういうものを優先しようとしてるみたいです。

生きるのぶっちゃけつらい民にとって「生きててえらい」は紛れもなく正の言葉ではあるので、この言葉にたまに救われつつ、なんとか色々選択しながら生きていきたいなと思うそんな夏の終わりの8/31でした。