Happiness arises, radiating in vibrant hues.

『幸せが生まれ、鮮やかな色合いで輝く』ことを希う場所

当たり前の話をしましょう。

最近気づいたことがあり、自分の好きなことの一つに、当たり前のこと過ぎて別に考える必要もないことを考えるというものがあるみたいです。例えば自分が知っている言葉を別の側面から捉える。メタな観点から、その言葉を見直してみたりすると、今まで使っていた以上に、その言葉に対して愛着や重さを感じることが出来たりする。その瞬間が好きなようです。

よるのひつじのロリータシリーズが好きな理由は、きっとここにあるんだろうなと思います。気持ちの良くない言い方をしてしまうと言葉遊びの一つのようなものなんですが、この言葉の再定義のような事をしないと見られない世界の見方のようなものがやっぱりある気がします。

はてなブログを始めて、箇条書きではなく文章を書くようになってから、この『言葉』というもの自体に関心を持つようになりました。特に『言葉が相手に届くかどうか』というもの。

普段私たちは当然ながら言葉でコミュニケーションを取っています。文字だったり、言葉だったり、絵だったり、動作だったり。その言葉が相手に届く最低条件としてあるのは、恐らく双方が理解できているものかという点だと思います。私が「あなたの幸せを願っています」という想いを込めて「ふえとえゆしぢゅいえう」と相手に伝えたとしても、相手はその言葉が理解できていないため、単に急に頭おかしいことを言いだした人間になり、言葉は相手に届きません。もっと現実的なところで書くとITのわからない人間に対して、専門用語を使ったとしても相手には伝わらず、「知識が不足しており申し訳ございません。この用語について説明頂けますでしょうか」と回答が来ます。(まるで実体験のようだ) 

ただ、専門用語となるため部分的に相手に伝わってはいなくても、相手が理解できる言葉は用いられているため、相手からはまだ関係の継続が行われています。仕事だから切りたくても切れない関係という可能性もありますが、一応自分と相手の間に関係性というものは生まれており、継続して関係性は続きます。

この関係性というものが言葉が相手に届くかどうかにおいて大事なものだと思う。
そんな話をしたい記事です。前置き880文字です。


当たり前の話をどんどん重ねていきますが、私たちは関係性の中に生きています。
生まれた時には子供と親という関係性。学校に入ったら先生と生徒という関係性。社会に出たら上司と部下という関係性。といったように、自分以外の誰かが存在する限りは何かしらの関係性が生まれます。ただ道にすれ違った人に対しても、スーパーの前で歩いていてすれ違った関係性が生まれるとか書くと、だいぶこじつけ感出ますが、他人という関係性として捉えるとしっくり来るかな。

この関係性のうち言葉が相手に届く。書いたものが相手の心に届くという点に絞って書いていきます。今あなたがここまで文章を読んでいるのは、きっと下記いずれかの関係性によるものだと思います。誤クリック/タップでここまで読んだ人は、これも縁ということで最後までお付き合いください。

ツイッターでのF/F関係のような元から私となんらかの繋がりがある(人の関係性)
②記事が気になり、中身を読んでやろうと思った(関心の一致)

①はそのまま「知ってる人が書いてるから読むか」というもの、②は中身やタイトルで興味を持ったというものです。どちらも記事を読もうという動機に繋がるものだと思います。対面であれば、近くにいるだけで関係性が生み出される気はしますが、文章の場合、相手から関係性を作ろうとしてくれないことには、相手に届くことがほぼありません。相手が暇すぎて、上から片っ端に見かけたものを読んでるとかなら読んで貰えるかもしれませんが、その場合の相手に届く深さのようなものは、あまり期待できなさそうです。

この深さはずっと頭や心に残るものか、一時的なものとなり、すぐ消えてしまうものかといったものとしています。この点は正直自分と相手の関係性というよりも好意の有無が大きく関わっていそうです。好きが大きい人であれば、良いことを言えば深く響く。嫌いが大きい人であれば、良いことを言っても「へっ」となってしまい、響かないどころか反感を覚えてしまう。

人として正しいかどうかというと、どう考えても人に依らず、言葉に依り正しいか否か、良いか悪いかを判断するのが正しいのですが、人間そこまで出来る人はそう多くないと信じています。

この言葉の届く深さについて、恐らくわかりやすいだろうという出来事がありました。
先日3周年の記事を書いた季咲あんこさんが日曜定期に行っているマイクラ配信で、自分のカタチを見つけたという話です。

誰かの笑顔の理由になれたらいい。
みんなの笑顔の理由になりたいわけじゃない。
世界中のみんなを敵に回しても、誰かの笑顔の理由になれたらいい
だから別に何かを強く求めることもないし、別に味方じゃなくてもいい。敵でもいい。
私を見て笑顔になれたらそれでいい。


この言葉が深く刺さる人間にはきっと条件があって、それがここまで書いてきた関係性。この言葉を受け取る側の持つ関係性に依存していると思います。この言葉の真実味や本音かどうかという部分は、疑いなく本音だと思います。記念配信や何かのコメント等の改まった場ではなく、通常の配信の話の流れから出てきたものである点。そして、これはリスナーだからこそわかるというものになってしまいますが、その場のノリとかで適当にこういうこと言えるタイプではないから。

こう私が言い切れるのはまず、私が季咲あんこさんのリスナーであり、そして配信をほとんど見ているくらいには好意があるという、先にあげた関係性を満たしているからです。この関係性を満たしていない場合「ふーん」で終わり、特に響くことはなく、「なんかそんなことを言ってる人間がいるらしい」で終わり、次の日にはそのことも忘れるくらいの印象しか得られない可能性が高いと思います。

このように相手に言葉が届き、そして深く刺さるには、相手からの関係性を持つという意思、そして相手から自分への好意(少なくとも敵意はない)が必要であると思います。

先に書いた②の関心の一致で関係性が生まれた人に関しては、この相手から自分への好意というものは書いた人の事を知っていることはないため発生せず、基本的に内容、及び文章の相性によるものがメインになるかと思います。単純に内容で勝負したい人はこのタイプの人に見て貰える方が嬉しいとかあるかもしれません。

②の関心から入った人に文章を通じて継続した関係性(また書いてるから読もう)が生まれ、そのまま深く刺さるところまでいく。要はファンを作るといったことだと思います。文章に惹かれる。考え方に惹かれる。その人の事を知らなくても文章の力だけでそこまで人を引き付けられる可能性があると考えると、言葉の凄さを。どんなに時間をかけて丁寧にかけて素晴らしい文章を書いても、誰にも読まれることがない可能性があると考えると言葉の無力さをそれぞれ感じます。

私とあなたの関係性が今後も継続しますように。できればそれが良好なものであるよう願っています。

 

以下あとがきのようなもの。本来の記事で書きたかったこと。


本来、この記事は引用した季咲あんこさんの言葉について、アレコレ書こうと思ったんですが、流石にそれはちょっとやることがグロテスクな気がするので、観点を変えて書いています。

この言葉に対して言いたいことは2つ。
推しは最高に可愛くて、最強にかっこいい。
できたら、その『誰か』に自分も入れてあげて欲しい。


この配信で語っているように自己肯定感が低いところから、この言葉が出ていると考えると凄いことを言ってるし、更に好きにはなる言葉だけど、ちょっと心配。
度々言われるという配信の雰囲気の良さについて、きっとそれはリスナーの力によるものであって、自分の影響はそこまでないと考えちゃっているような気もしますが、決してそんなことはなく、あんこちゃんだからあの空間ができているという点。季咲あんこにしか、この空間は作れないという点に自信持ってくれたら嬉しいなと思います。

とはいえ、こんなのはただの価値観の押し付けであって、自己肯定感や自信のようなものは自分で気づくしかないものだと思うので、気づけるサポートみたいなのが推し事の中で出来たらいいなと思います。

つまり、どんどん褒めていく。結局やることは変わらないですね。

最後の最後まで読んで頂きありがとうございました。
この記事が誰かとの関係性の構築のきっかけになれたら、それはもう最高の幸せの一つかもしれません。