Happiness arises, radiating in vibrant hues.

『幸せが生まれ、鮮やかな色合いで輝く』ことを願う場所

相思相愛ロリータ

えろげに限った話ではないんですが、プレイ/見てる直後どころかプレイ/見てる最中からずっとちゃんと感想書きたい!と思う作品っていくつかあるんです。でも、そういう作品ほど色々書きたいことができてしまったり、好きという想いが強すぎて細かいところが見えなくなってしまったり、逆に細かいところを拾わなくてはという想いが強くなってしまって書けないんですよね。

今書いている相思相愛ロリータがまさにその枠の作品なんですが。
ネット、というかついったー上で話題になってるからプレイした作品っていくつかあるんですが、ここまでプレイしてよかった作品は他にないかもしれません。


作中でこんなセリフが出てきます。

「ひとはね、同じさびしさを持つ人としか仲良くなれないんだ。同じ深さが必要で……。さびしい人とあまりさびしくない人が出会っても、本当に仲良くはなれない。すごくさびしい人とさびしい人も同じで」

「わかる、かも。だって……たくさん友達がいる人の友達になっても、もっとさびしいだけだよね」
「それと似てると思う。逆に、本当に本当にひとりぼっちの人がいたとしても、僕はその人とは仲良くなれない。深さを、埋めてあげることはできないから」

 

これはもしかしたら、人と作品の間にも言えることなのかなと思いました。
この作品の持つさびしさが自分にはとても居心地の良いものだった。
結局そこがこの作品がとても好きな一番の理由なのだと思います。

 

この作品はまこちゃんとおかくんが電車で出会うところから始まります。
初めてまこちゃんがおかくんの家に行ったときに、一人で住んでいることをおかくんが告げると

「そっか。じゃあさびしいね。まこと一緒だね」

とあっけらかんと笑いながらまこちゃんに告げられます。

この『まこと一緒だね』がこの作品の肝なのかなと今書いてて思いました。
この作品にはさびしさを慰め合うようなシーンというものがありません。
まこちゃんとおかくんは互いのさびしさ(それはぽっかり穴の開いた場所。とも言えるかもしれない)に主に寄り添い、たまに埋め合う形で日々を過ごしていきます。

 

さびしさに寄り添ってくれる。
私がこういった孤独やさびしさというものを主題として扱っている作品に求めているのって、結局この一点なのかもしれません。
私が何度もこのブログ内で言及しているANGEL TYPEは寄り添う。というよりは抱えている孤独を理解し、その上で答えをくれる。といった感じなので、もしかしたらこの作品、相思相愛ロリータよりも少し強さが必要なのかもしれない。

ANGEL TYPEは何度も孤独であることを肯定しているかのような描写がでてくるけど、
結論としては「人は一人では生きていけない」その一点を伝えてくるだけだから。
それでも、ANGEL TYPEの孤独に関する描写は抜きん出たものがあると思ってるので、
さびしさや孤独と言ったものに関心がある方にはぜひプレイしてもらいたいです。

 

話が逸れました。
相思相愛ロリータの話に戻ります。

 

この作品に出てくるキーワードに『はすかい』というものがあります。
意味は【ななめにまじわること】。

作中では【はすかいに合わせる】という形で、初めての大人のキス~初めてのセックスの流れの中に登場する言葉です。
2人の初めての【はすかいに合わせる】は、まこちゃんがまだ初潮を迎えてないということをおかくんに告げる場になりました。
ある意味ロリゲ―の醍醐味とも言える流れですが、この作品では「中に出しても子供ができないぜ!ヒャッホー!!」といった捉え方だけではないのがとても好きです。

今はただ気持ちよくなるためだけにしかない。何も生み出さない。ただ純粋につながるためだけのつながり。

2人だけでしか得ることができない。絶対的な他にない特別なつながり。
そんなつながりを2人は初めてのはじめてを通して得ます。
 

おかくんはまこちゃんとのはじめての最中、今までまこちゃんと過ごしてきた中で得たものとは、また異なるものを手に入れます。それは独占欲。そしてわがまま。

まこちゃんと肉体的にも繋がることで、おかくんのまこちゃんによる救われは本格的に始まります。

私個人の考えとして、バブみというものに救いを求めてしまう人間は『ただヒロインに甘やかされたい』という想いだけでは満足できなくなってしまった人間なのかなと思います。バブみ=救いではなく、バブみの先に救いがある、あった感じでしょうか。
単にヒロインに甘やかされるだけならば、姉や主人公と同年齢のヒロインでもいいわけですから。
※主人公と同年齢ということは多くのプレイヤーにとってヒロインは年下であるということになりますが、目を瞑りましょう。プレイ中はユーザは主人公と同年齢になっている。


ヒロインに甘やかされるだけでなく、ヒロインにだめな自分を受け入れてほしい。だめな部分を含めて自分を肯定して欲しい。そんな想いがあると思います。

別にそこら辺って年上とか同年代のヒロインでもできることなんじゃ?
違うんです。年下、言ってしまえば幼女という、自分よりも明らかに弱い存在に救われることで、自分のだめさがより際立ち、より強い『受け入れてもらえた』という快感を得ることができるのです。
たびたびついったー上で書いている『ロリに救われる喜び』というのはそういったところにあります。

ヒロインに救われるためには自分の醜い欲求に気づき、それを受け入れてもらう。
そういったプロセスが必要な気がしています。このプロセスをおかくんはまこちゃんとの初めてのセックスで行いました。さびしさからの救済。そして、だめなおとなの救済の本格的な始まりです。

ここまで救われているのはおかくんだけであるような書き方をしてしまいましたが、
もちろんそんなことはなく。
まこちゃんもおかくんとつながることでわがままや欲しいものが欲しいというという想いを得るようになります。これはおかくんにも共通していることですが、まこちゃんは片親(母が不在)の家庭で育ち、教会の施設で今は生活しています。まこちゃんがおかくんと出会うきっかけとなったまこちゃんの『いちにちいちぜん』や『お役立ち』という行動は、まこちゃんの下記の想いから行われました。

「まこは……りゆうが欲しい」

「理由?」

「いてもいいって、誰かに言ってもらうだけじゃなくて、自分でも思いたい」「…………」

「そんなものはなくてもいいんだって、何もなくても何もできなくても、ここにいていいよって、言ってくれる人もいるけど……。まこはそれはうそだと思う」

だから役に立ちたい。
まだ初潮を迎えていないような子が持つには、重すぎる考えです。その考えもおかくんと過ごすうちに溶けていきました。

『お役立ち』と『わがまま』って対極な言葉ですよね。場合によっては『わがまま』が『お役立ち』になることもあるけど、そんなことは稀で。
お役立ちは誰に対してもできるけど、わがままは基本的には聞いて欲しいと思える限られた人間にしかできません。わがままを言うのってやっぱり相手が受け入れてくれるという想いが少しはないとできませんから。
ただ、おそらくまこちゃんが求めるわがままを聞いて欲しいと思える人間ってきっとそれだけじゃなくて、自分の境遇への同情のようなものを含まない形でわがままを聞いてくれる人間ではないと駄目なのかなと思います。それが同じようなさびしさをもっているおかくんに出会えたことで叶えることができました。

それではその先にあるものはなんでしょうか。
まこちゃんとおかくんが夜のさんぽに出る場面があります。
そこで二人が出会うのはお風呂から出る湯気。漂う夕飯の香り。そしてたくさんのあかり。まこちゃんは今まではそれが羨ましかったと語り、おかくんもそれに続きます。

「みんな、自分のおうちがあるんだなあって……。うらやましかった」

「今までは、わたしはあかりの中にいられないなって……おもってたけど。今はちがうよ」
「かえるところが、できたの」


「うん……僕も。今まで”かえりたい”っておもうことはあっても、それがどこなのかわからなかった」
「知らない誰かの部屋に帰るみたいに、あの部屋に帰ってたよ。だからどこにいても、どこか帰る場所を探してて」
「今は……、きみのいるところが、僕の帰るところだよ」

2人はさびしさに寄り添う関係だけでなく、お互いの居場所になりました。それはいままで2人が得られなかった安心できる場所のようなものです。やっと2人は今と過去だけでなく、この先に続く未来に目を向ける時間を、それも暗い未来ではなくきっと大変だけど明るく見える未来を見る時間を得ました。

もし僕が、彼女のあらかじめ失われたかけらを集めて、埋めることができているなら。
あるいは彼女が同じことをしてくれているのなら。
いずれ戻っていくべき場所があると思う。

今はまだ、具体的にそれを考えることはできないけれど、いつかは

きっとこの戻っていくべき場所というのは家族というものなのかなと思います。
さびしさで繋がった二人が家族になり、子供には寂しさを少しでも与えないようにと願う。そこで物語は終わります。

さびしさというものに覆われてしまうと、どうしても未来というものが見えづらくなってしまいます。見えても暗いものしか見えなかったり。だから見ようとすることすらしなくなってしまう。
この作品を通して、さびしさを解消することはできないかもしれないけど、さびしさに寄り添ってもらう喜びは知ることができる。そんな作品なのかなと思います。