Happiness arises, radiating in vibrant hues.

『幸せが生まれ、鮮やかな色合いで輝く』ことを希う場所

これも愛 あれも愛 たぶん愛 きっと愛(終ノ空remake 横山やす子視点視点)

物語の中でしか愛を知らない成人男性にとって、愛というものはほんに理解しづらいものです。
ただ、愛という言葉自体が強いものなので、ネタとしての使い道はとても幅広く使うことができるため割と使ってたりはします。
昨今だと主にボンドルドのせいで、更に愛は軽く使える便利ワードになっている気がします。愛です。愛ですよ。ナナチ。

 

終ノ空remakeは純愛。

そんな感想持つとは思っていなかったのが正直なところです。
「男のはじめては父親に奪われたから女のはじめてくらいは好きな人に」だった気持ちがそんな純愛と呼ばれるところまで、なぜいったのかは分からない。

異性ではなく同性だとそういった『好きになる』という行為そのものに愛というものを見出してしまうのはある気もしています。これは結局、自身が理解できないものだけど、大枠として理解できるものとして『愛』というのがいたから、それを当てはめてるというところもありそうですけども。

 

やす子ときよしの兄妹最後の会話の場面。
ここできよしはやす子に対して、献身的という言葉を持ってやす子の若槻琴美への行動を語ります。

「今の私には、世界の滅亡は止められない。
 けど、私の脳に住む化物を琴美センパイに感染させない事は出来る。
 どちらが本当で、どちらが嘘かもしれない。
 それでも、私が出来る事で琴美センパイが救われるのなら、私はそちらを取る」
~中略~

「もしそうなったら、その最後の時に、若槻琴美の横にいてやれるのは水上行人って事だよ……」

 
やす子の望みである若槻琴美の純潔を奪うというものは達成できているとはいえ、
結局最後を持って行くのは水上行人であり、自身はいわばお膳立て、もっと言うなら厄除けとしての役目を果たして終了ということになります。
たしかに、これを献身と言わずに何を言うのかという感じですが、やす子はそれを否定します。

「違う。違う。これは私のエゴだよ。
 世界がどうなろうと、みんながどうであろうと知ったこっちゃないけど、若槻琴美さんが幸せであって欲しい」


「それで自分を犠牲にしているのなら、それは献身だろうが」

「違うよ。私の望みがそうなだけだもん。献身的って言われるとなんかくすぐったい。私が彼女の幸福を願うのは私のエゴなんだよ。それで、世界が滅ぼうがなんだっていいんだからさ。あの人は、その最後の時まで幸せであってほしい……」

「おまえ、お前さぁ。それ違うよ」

「違わないよ。愛ってそういうものなんだよ。
 愛は最高のエゴだ。最高の自分勝手な想いだからこそ愛には価値があるんだよ。私は彼女に幸福を押しつけている。けど、それこそが私の幸福なんだよ……。愛って言うのはそういうもんだな」

 あくまで、自身の単なるエゴがきよしから献身に見えているだけ。
ここの部分でやす子は人生の最後とも言えるタイミングで愛とは何かということを理解します。
ここで愛というものについてやす子が語っていますが、やす子ルートやり直すまで気づかなかったんですが、もっと前にやす子は愛というものについてモノローグではありますが、触れているんですよね。
それは横山やす子A面。若槻琴美と出会う前の回想の最後の部分です。

私の世界に愛はいらない。

私の世界に必要なのは、いつだって、どうやって自らが幸福になるかだ。

そのためには、奪わなければならない事もある。

そう、あの底辺の地獄からここまで来た私だからこそ、そう言えるのだ。

幸福とは、自らのために世界のすべてを利用して手に入れるものだ。

ここでやす子は愛はいらない。必要なのはどうやって自らが幸福になるかという点だけだとしています。
それがですよ。若槻琴美へ幸福を押しつけることが自身の幸福であるとするところまでいったんです。凄い認識の変化です。まさに愛ですね。

実際に聞いたことはない気もしますが、よく聞く台詞として「あなたのことを思って○○した」のようなものがあります。
大体これは別にあなたことを思ってるわけでは無く、自分の理想を相手に押し付けている、かつ、「あなた」はその理想を押しつけられて迷惑しているというオチが付くものとなりますが、それと今回のやす子が語る愛の違いって、そんなに差はないんじゃないかと思います。
あるとしたら、相手にその行為による影響を知られなくてもよいという点。
愛には『綺麗なエゴ』と『汚いエゴ』を元にしているものがあり、綺麗なエゴは別に相手に気づいてもらわなくても、知ってもらわなくて構わないというもの。
汚いエゴは相手に気づいて欲しく、そして場合によっては対価を求めてしまうものとでも言えるでしょうか。前者は献身、純愛とも呼べそうですが、後者はまんまストーカーまであと10cmという感じです。

愛は支配的で、暴力的で、利己的で……。そして優しさに包まれている。
だから人を愛するという事は意味がある。
それは力だから—―。
愛は力なのだ。だからそれは美しくも尊くもない。
猛毒は薬にもなる。ただそういう事に過ぎない

「愛は呪われているからこそ、祝福に値する」

ここで「愛は呪われているからこそ、祝福に値する」とやす子は語っていますが、この言い方って表現は違えど終ノ空シリーズにおける生についても置き換えられる言葉になってるかなと思います。終ノ空にまつわる事象を通して、卓司や行人は生について、そしてやす子は愛について理解を得たという事になるのかな。終ノ空は愛と生の物語だったとか単純に考えると全くイメージ紐づかなくてなんか面白いです。

そして最後の場面。
やす子は卓司と愛について語ります。
ここで卓司は愛を知っている。ただ個人を愛する事はない。観念の世界しか愛さないと語ります。なんか難しい事言ってるぽく見せてますが、要は三次無理二次最高と言ってるだけですね。つまりリアルで愛を知る事はなく、物語を通してのみ卓司は愛を知っているとも言えるかもしれません。

あれ……。もしかして……。私、間宮卓司だった……?
屋上からではないですがオチましたので、ここまでとします。
ありがとうございました。