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実がないだけ雄弁なんだと言うけれど、雄弁に語る言葉すらない人間はどうすればいいんだ?(『シラノ』感想)

ある特定の方向けに有意義な情報と思うので、まず先に書いておくと、この作品には高島ざくろや水上由岐は『いない』です。シャボン玉は膨らむことがありません。

ということで『シラノ』観てきました。
原作読んだのが10年くらい前ということで、ストーリーはほぼ全て覚えていなかったため、観ていて新鮮でした。改めて見ると、ロクサーヌはまさに愛と言葉に生きる人という感じですね。映画を観たのをきっかけ(正しくは2回目観るため)に原作読み直したんですが、シラノがロクサーヌの印象を

……まったくあなたは、……美しい言葉、才知を殊に好まれる

と語る様に偏重がすごいです。外見で一目惚れした人に対して、外見の良さだけで納めるのではなく、言葉の扱いも求めるってなかなかハードル高い気がします。でも、実際にロクサーヌとクリスチャンが会話するシーンのクリスチャンの発する言葉が、言い方悪いけど、脳筋というイメージがぴったりの言葉しか出てこなくて、これはたしかに普段から教養を嗜んでる人間からしてみると、ずっと言葉を交わしていく相手にするにはつらいな……。と思いました。クリスチャンごめん。ちょっと擁護できそうもないです。

シラノ原作の文章の書かれ方はとても独特なものとなっていて、全体が台本のような形になっています。そこにはシラノの周囲の人間のユーモアさといったモノも描かれているのですが、映画ではユーモアさのようなものはだいぶ抑えられ、雰囲気のよい恋愛ものに仕上がっていました。台詞や展開自体も原作からはだいぶ変わっていて、再読してちょっとびっくりしました。特に「え、そこ削るん?」となったのはクリスチャンの魂役を引き受けると決めた際のシラノの下記セリフです。(冒頭の一部の方への有意義情報に当たる部分)

俺たちはな、ただ名前ばかりがシャボン玉のように膨らんだ、夢幻の恋人に恋い焦がれている。
さあ、受け取れ。この偽りを、真実に変えるのは君だ。
俺は当てもなく、恋だ嘆きだと書き散らしたが、彷徨う鳥の留まるのを、君は見ることが出来る人だ。
さあ、取りたまえ、——実がないだけ雄弁だと君にも分かる時が来る。
――さあ、取りたまえ!

この台詞とても好きなんですよね。シラノが自身の言葉をクリスチャンへ託すと告げ、クリスチャンの魂になると宣言する詩的な言葉。『実がないだけ雄弁』と自身の言葉の空虚さも込められているのがとてもよいです。そして、バルコニーのシーンでそれが実際に正しい。雄弁さだけでは得られないものがあることをクリスチャンに見せられる流れがさらに良い。

そもそもの話なんですが、シラノを読み始めたのが『素晴らしき日々 ~不連続存在∼』というこの台詞が引用されているエロゲきっかけだったので、この台詞なかったらシラノ読むことは人生で確実になかったんですよね。観たいと思ったのも、この台詞を劇中で聞きたかったというのが多分にあったので、ちょっと残念度は高いです。


閑話休題

また、大きく変わっているところとして、原作だとロクサーヌが戦地にやってきて、戦地の人々に食料を振舞うという描写があります。このシーン、恐らくミュージカルで演じるなら、とてもコミカルで楽しいシーンになったと思うのでちょっと観たかったですが、その代わりとても良いシーンが代わりに入っていました。それが、名も無き兵士がそれぞれの大事な人に向けた最期の手紙を書き、手紙の回収係に最期の言葉を託しつつ渡すシーンです。ロクサーヌやシラノのように美しい言葉や詩的な表現ではなく、純粋に愛する人のことを想うまっすぐな感謝と別れの言葉。言葉について作品として語るならば、こういった詩的や饒舌とは言えない言葉についても同列に扱わないといけないと思うので、この作品の言葉にかける想いが伝わってくる良いシーンでした。

この作品がどういった作品になるか例えるとするなら『愛と言葉、そして誇りの物語』になると思います。愛と言葉についてはこれまで書いてきた通り、ロクサーヌとクリスチャンを通したシラノの夜のべランダでのシーンやそれこそ何千、何万もの言葉を重ねてきたであろう手紙などで表せるものです。そして、誇りについては、冒頭の劇場のシーンでシラノ本人から語られる通り、生まれたときから化物と謗られ続けた人生を送り、それに対抗するように自身を育てつつも、ロクサーヌと結ばれようとは決してせず、ロクサーヌ自身から「愛している」と伝えられても愛を伝えるのではなく、「私が愛しているのは誇りだ」と語る最期の姿は、まさに自身の人生を通じて身につけた固い意志。誇りを曲げなかったとても美しい最期だと思います。

以上で『シラノ』感想は終わりです。愛と言葉の美しさに満ちたよい作品でした。
曲について書いてませんでしたが、全体的に落ち着いた曲が多かった気がします。ミュージカルだと割と盛り上がる曲が多いイメージなので、しっとりしたものが観たい人には良いかもしれないです。めちゃくちゃ好きという曲は見つかりませんでしたが、綺麗な曲が多かった印象です。

ここからは映画はそんなに関係ない話になります。

作中でクリスチャンが「ロクサーヌは俺の魂を愛していると言っている。つまり、彼女は俺を愛しているんじゃない。君を愛しているんだ」とシラノに語るシーンがあります。この言葉が何を意味しているかと言うと、クリスチャンはシラノのアバターでしかなくなってしまい、ロクサーヌは中身であるシラノにしか興味がないという話です。
そもそもロクサーヌがだいぶ特殊で言葉編重主義なところがあるため、遅かれ早かれこういう結末にはなったと思うし、なんならクリスチャン自身もそこに気付いていて無理だと言っていたんですが、やっぱり駄目でしたね。

もし、クリスチャンがただの意思のないアバターとしての存在であったならば、それはもうただのインターネット生命体である私達と何ら変わらない存在になれたんですが、残念ながらクリスチャンは意思を持つ人間であったため起こってしまった悲劇ですね。

バ美肉として配信者として活動し、キャラクター性を売りにして活動していたら、ふとした時に漏れ出るキャラクターではない素の自分自身に恋するオタクが出てきて、それにもにょもにょとしたものを感じているならば、それはもう、一人でクリスチャンとシラノの関係構築に成功しているんじゃないかなとかちょっと思いました。
『実はないだけ雄弁』を自身の経験を踏まえた上で自分自身に語る虚しさにあなたは耐えられますか? 私はきっと無理です。