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オタクの死に花束を (花束みたいな恋をした 感想)

エヴァがついに公開されました。

個人的にはとてもよかったです。個人的には最後の曲がBerautiful Worldであり、その歌詞が全部観終わった後だと完全に理解できるものになっていたのが、なんか伏線回収という感じで鳥肌立ったりしました。
中身の感想はもっかい観て書けそうなら書く感じで。何回見ても何十回見ても深い感想は書けないので、正直今書いても変わらない気するけど。

じゃあなんで記事書いてるのというと、『花束みたいな恋をした』がとてもよかったからです。オタクは一度は観てみるときっといいと思う。シン・エヴァでゲンドウに「俺」を感じた人は、この作品で「ありえたかもしれない俺」にきっと会える。

話としてはサブカルオタク同士が付き合って、そしてタイトルで「した」となっているように別れるまでの過程が描かれていく作品なんですが、この中で描かれるオタクの死ドキュメンタリーがすげぇ生々しい。ちゃんと恋愛もの映画としても完全に成立してるんですが、オタクドキュメンタリーとしても完全に成り立っている。

ツイッターできっと誰しも見かけたことのある発言で、『過去あんだけアニメ!、ゲーム!と元気に話していた人間がいつの間にかそういった話をしなくなり、ついには意識の高いことを言い始める』というのがあります。この作品、これがすげー生々しく描かれています。

大学卒業後、イラストを描いてお金を得ていたが徐々に単価が下がっていき、もうイラストでは食えないから働こう。仕事が決まった。この会社17時には上がれるからイラストは描き続けられる!よかった!
配属先は営業になり20時に上がることがほとんどになっていく。仕事に生活が塗りつぶされていく。サブカル的趣味もできなくなっていく。ソシャゲしかできない。「ストーリーが頭に入らない」から漫画を読むことが出来ない。働き始めてからイラストを描く描写はついに見られなかった。

脱出ゲームとかをやるイベント会社への転職が決まった彼女に対して「そんなの遊びじゃん」と本気で言ってしまう程度には、もうオタクというものは彼の中から抜け落ちてしまっている。
オタクは学生という時間に余裕のある時だからこそできるのであって、社会に出たら「生きることは責任」であるのだから、責任の中で生きていかなくてはいけない。だからオタクのような責任とは真逆の娯楽ごとを続けることは正しくない。

これキッツいのが別にオタクを捨てようとして捨てたんじゃないんですよね。
仕事をし、彼女との生活を続けていくため、オタクを捨てることになってしまった。
それもたぶん自分でも知らないうちに。
その結果、オタクであり続ける彼女の作品への愛「再演の舞台を観たい」に対して、「もう一度観たやつじゃん」ともうオタクの性質を理解できない人間にまでなってしまった。まさにオタクの死。

インターネット上から消えていったオタクの中には、これとほとんど同じようにしてオタクでは無くなってしまった人もいるんだろうなと考えると、オタクの死の追体験作品として極めて優秀だと思います。

レディ・プレイヤー1でオタクをやめろと言われ、エヴァで大人になれと言われるように、ことあるごとに「オタクをやめろ。大人になれ」と言われ続けているオタクに対して、社会に殺されたオタクの死を見せることで、今オタクである社会人に誇りを持たせる。そんな映画です。ぜっっっっったいそんな意図ないけど。


以上、感想でした。
オタクの死についてしか書いてないですが、この作品の肝の部分はホントに二人の感性の一致度は抜群であり、仕事というものがなかったら、きっと2人が思い描いていた生活がずっと続いていたであろう点だと思います。
やっぱ労働は悪。

 

-追記-

社会に出てオタクで無くなった彼氏の方がシンエヴァ絶賛して、社会に出ながらもサブカルオタクを続けられている彼女の方がボロクソにシンエヴァ貶してたら、正直個人的に一番気持ちいい展開です。