Happiness arises, radiating in vibrant hues.

『幸せが生まれ、鮮やかな色合いで輝く』ことを願う場所

詩吟の詩に希望の希で、詩希。苗字は佐伯の佐に倉敷の倉で、佐倉

あなたにもきっと自分にとっての特別なモノ/存在というものがあると思う。
それは人だったり場所だったり作品だったりと様々な形があって、
『誰にも理解されなくていい。なぜなら私が『コレ』を特別と感じているのだから』
そう感じられるものだと思う。私にとってそれは『佐倉詩希』というキャラクターになる。

 彼女はこのブログで初めて書いた記事ANGEL TYPEに出てくるキャラクターだ。
主人公である藤代尚の元に猫と共に現れ

「猫は寂しい人がわかるんだって」

そう彼女が語りかけることで彼と彼女の物語は始まる。
佐倉詩希は誰にも縛られない。舞台となる定時制の授業にも気が向いたら参加をして、
気が向かなかったら猫と共に星を眺めたり、散歩をしたりする。

彼女には両親がいない。家族と言えるのは幼いころからずっと過ごしている黒猫だけだ。
今、単に黒猫と書いたのは、この猫には名前がないからだ。正しくは『名前がわからない』それが理由だ。

彼女がこの猫を拾ったとき首輪には名前が書かれていたが、もう読めなくなってしまっていた。
普通ならまた新たに名前をつけるだろう。でも彼女はそうしなかった。

「ねえ、尚君は名前が二つあったら変だと思うよね」
「ん? ああ、そりゃまあ……」
「私もそう思ったんだ。だからこの子には名前を付けないことにした……。
 だってもうこの子には名前があるんだもの。私がしらないだけで……」

猫に名前を付けず、『この子』『君』等の名前で呼び、それをきっと『この子』も気に入っていると思っていると考える佐倉詩希。
この考えはきっと彼女の自己満足のようなものかもしれない。
けれど、私はとてもこの考え方好きだ。とても優しく相手を尊重している。
たとえそれが言葉を持たない猫であったとしても。

 
また、彼女は授業は必要ないと語る。
藤代尚はそれを聞き、授業に出るわけではないのに、なぜ学校に来るのか彼女に問う。
彼女は答える。

「無駄なことはしちゃいけない? 自分に無駄だったり、意味のないことはしちゃいけないのかな? 
 私は無駄なことや意味のないことをすることが好きなの。したいことをするっていけないことなのかな?」※一部中略

続けて藤代尚は夢とかなりたいものとかはないのか?と問う。

「私には夢なんてないよ。私は私でさえあればいいの。だからなりたいものなんて無いの。
 いつもしたいことをしているだけだし。今はただ星を見たいだけ——尚君とね」

私は私でさえあればいい。
前回の記事で書いた自己否定に満ちた藤代尚とは対極の考え方だ。
彼女は自分を強く持っている。だから周囲の価値観に合わせる必要などないのだ。
故に彼女はいつも一人で過ごしている。
これは孤独と言えるだろうか? これも孤独の一つなのだろうとは思う。
しかし、藤代尚の持つ孤独とは異なるタイプの孤独だ。


藤代尚の持つ孤独。それは人から逃れる孤独だ。
佐倉詩希の持つ孤独。それは他人を必要としない孤独だ。


私は彼女の持つ、強さとも言える孤独にとても惹かれてしまった。
佐倉詩希のようになりたいと思ってしまうほどに強く。
周囲に合わせた行動を取ることの多い自分にはどうしても眩しく見えて仕方がなかったのだ。


そんな孤独であるもの同士の藤代尚と佐倉詩希が『一人でいる』ことについて語り合うシーンがある。

「昔からそう……私が一人で遊んでいても、皆一人じゃ駄目って言うんだ……でも私は一人でも大丈夫だと思ってる……」
「皆、孤独や自由って言うのが怖いんだよ。だから自由な詩希を見ると、つい言いたくなってしまうのさ。
 自分が臆病だということを知りたくないという理由からね……」

中略

「尚君はどうなの?」
「僕は……わからない。一人でいることも、大勢の中にいることも、どちらも嫌いなんだ……」

中略

「何で……詩希は強いんだろうな……」
「詩希は……もう後戻り出来ないからだよ。ずっと昔。パパとママが死んで一人になった時、
 哀しいのはもう私一人でいい――そう思ったんだ」
「だから……そう決めたのか……」
「そう……私がいなくなっても、誰も悲しまないでいて欲しかった……」

先述、『それは他人を必要としない孤独/強さとも言える孤独』と書いたが、結局佐倉詩希も孤独により歪んでしまっていたたのだ。
けれど、それは藤代尚の持つ孤独とは違い、彼女なりの他者への優しさに満ちている。
藤代尚は彼女の語る自身の孤独について聞き、それは間違っていると確信する。
そして佐倉詩希に問う。「心を殺してこれからも生きるのか?」と。それに対して彼女は強い口調でこう返す。

「殺してなんかいないよ。だってこれが私の心だもの」

こう語った直後、彼女は涙を流す。
もしかしたら、それは初めて他者に自分の孤独について語ったことで、自分が一人なのではなく孤独であると認識したからかもしれない。


藤代尚は彼女の持つこの優しさに満ちた孤独を十字架を背負ったキリストのようだと語り、どこまで運ぶのか最後まで見届けたいと語る。
人から逃れることで自分を保っていた藤代尚が佐倉詩希に触れることで、自ら他人に積極的に関わろうと考えた。
これはこの作品、佐倉詩希ルートにおける最も大きな彼の変化のように思う。

 
その後ある出来事により、佐倉詩希は倒れてしまう。そして夢の中で彼女はあることに気づく

永遠に変わらないものはなく、全ては変わってしまう。それが今の私には痛いほど分かっていた。
だが、だからこそ、それを求める心だけは変わってはいけないんだとわかった。
手に入ることのないものを求めるのは、決して愚かなことじゃない。
求めることと手に入れることは全く別のことなのだ。

求めれば必ず得るものはある。でも期待してはいけない。ただそれを信じなければならない。
それはとっても辛いことだと思う。片方の目で真実を見ながらもう片方の目で夢をみるようなものだ。
でも私は、今ならそれが出来るような気がする。

彼女は孤独に生きることをやめたのだ。
誰かと共に過ごすということは誰かと別れることと一体だ。佐倉詩希はそれを受け入れることができなかったため、一人であることを選んだ。
そんな彼女が藤代尚と出会い、自身の孤独に気づき、常に寄り添ってくれた彼と共に過ごすことを決める。
佐倉詩希により孤独から救われた藤代尚が、逆に佐倉詩希を孤独から救った。
救われた者が救ってくれた人を逆に救う。物語的にはよくあるものだけれど、やはり良いものだと思う。

 
佐倉詩希ルートの最後、モノローグでこのように語られる

人は誰でも心の中に隙間を持つのだろう。それは傷つくことで大きくなり、癒されることで小さくなるものだ。だけど、それは決してなくなりはしない。
隙間は隙間として、ぽっかりと空いているのだ。だから、僕達は隙間を埋めようとする。隙間と同じ形のものを探し、それを求めるのだ。

隙間。それが孤独の正体とも言えるものなのだろう。
私はその隙間を埋めるピースを探すために日々を過ごしているのかもしれない。