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『幸せが生まれ、鮮やかな色合いで輝く』ことを願う場所

現実には勝てないんだけどさ、でもね

現在のツイッターのbio書かれている『楽しそうな人っぽく』という言葉は、
『桃色シンドローム』という作品で出てきた言葉になります。

この言葉の通り『楽しそうな人っぽく』生きていた作中のキャラは、
結局現実に勝てず、いったんは現実というものを全力で拒否しますが、
最後には現実を受け容れ、というよりは折り合いをどうにかつけ、
楽しそうに生きる日々を続けるのでした。

物語の中のキャラクターが感じている『現実』と、
現実の読者としての私たちが生きている『現実』の違いというものは
どこにあるのでしょうか。それとも同じなのでしょうか。

最近運命論に関する本を読み、運命論というものにもいくつかの種類があり、
解釈的運命論、因果的決定論、神学的運命論、論理的運命論というものが登場します。
この本の中では、運命論の形として論理的運命論が正とされており、
ざっくり言うと「現実になったものが運命」が論理的運命論となります。

私達が運命論のイメージとして持っているものは神学的運命論、
(神様が事前に運命を決めている)
または解釈的運命論のどちらかになると思います。
(あの時ああしたから、罰が当たったんだ)


運命論として見ると、先の物語の中のキャラクターが感じている現実は、
神学的運命論、予め神(作者)が決めた現実を生きているということになると思います。

その物語の中を生きているキャラクターが行っている『楽しそうっぽく生きる』という
行為って、おそらくですが、ほぼほぼ過程はどうあれ、
それが正になることが最終的に確定しているものになるかと思います。

それこそ言ってしまえば、明らかBadなものだとしても、
そのキャラクターが楽しかったと語りながら事切れれば、
読者としては楽しく生きたんだということを受け容れるしかありません。

言ってしまえば事前に結果が用意されており、そこに向かってひた走っていく現実。
そう言えるかもしれません。
読者アンケートとかそういったモノで走ろうとしたら、
落とし穴に落ちて死んでしまうものも多々あると思いますが。

それでは読者として現実を生きている私たちはどうでしょうか。
この世界には可能性というものがあり、50%だったり10%だったりで語られます。
しかし、たとえ可能性が100%だとしても、結局現実にならなければ、
それは運命ではなかった(可能性100%が外れることが運命だった)となります。
論理的運命論としての現実を生きるとする私たちの現実の姿は、
こういったものとなります。
現実となったものが運命であり、現実とならなかったとしてもそれが運命である。

そんな現実の中で『楽しそうな人っぽく生きる』ことができるのでしょうか。
通常『〇〇っぽい』という言葉は、対象が外から見たときに、
どのように見えているかとする言葉だと思います。
では、この言葉を自分自身に対して使うと、その時に生まれる意味としては、
「願い」というようなものとなります。
こうありたい、周囲からこう見られたい等々。

私の解釈となりますが、願い、願望というものは、
可能性というものを0%から100%まで、
幅はあれど生み出すためのエネルギー源だと思います。

しかし、この願いにより生み出された可能性というものも、
結局は現実というものには勝てません。
先に書いた通り100%の可能性も現実には敵わないこともあるのですから。

『楽しそうな人っぽく生きる』の空虚感というものは、
おそらくここにあるのかと思います。

『楽しそうな人っぽく生きる』ために、たとえば推しを作ってみたりだとか、
色々な映画を見たりだとかしていても、結局現実的に自身が感じているものには
勝つことができません。

桃色シンドロームのあとがきを引用します。

漫画の中には楽しい事だけが描かれていて、
それを呼んでいる間は現実の嫌なことを忘れられて、とてもハッピーな気分。
ああ、今なら誰かとハイタッチさえ出来そう。
だけど、漫画を閉じたら薬の効果が切れてしまう気がしたんです。
僕みたいな卑しい人間は、漫画にもっともっとを望んでしまう。
本を閉じても持続する効果を。
現実に立ち返っても、それでも笑顔のままでいられる効果を。

私にとって、この漫画に該当する者が推しであったり、映画であったりするのだと思います。
現に推しの配信を見ている時はとても明るい気分で、ハッピーな気分。
そんな状態も配信終了後数時間、ふぁぼをもらえたり、リプをもらえたりした数分間の幸せとなり、結局のところ現実の自分は楽しそうっぽく生きることに縋っているだけなんじゃないかと感じることがあります。

それこそ、こういった記事を書いてしまいますし、自身の理解として、
恐らく今この記事を書いている状態こそが自身の本質的なところに近いんじゃないかと思います。

ただ、そんな自身の『楽しそうな人っぽく生きる』に疑いを持っていたとしても、
一つだけ確信持って言える、言い続けたいことがあるんですよね。
たとえ、現実に勝てなくてもこれだけは負けは認めたくないし、認められないもの。

推しがずっと幸せでありますように。