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言葉という銃弾の扱い方

別にそれが悪かったとか後悔している。なんてことはまったく無いんですが、
他人と会話する回数が少ない道を歩んできたなと思います。
会話したとしても、それは身内であったり仕事の会話であり、他の意味をあまり持たないものであったり。
そのせい、ということは決してなく、恐らく認識や自覚というものがなかったということのなのだと思うけど、自身が放つ『言葉』というものの影響を、最近ようやく理解できている気がしています。
「言葉にしないと伝わらないよ」というフレーズがありますが、少し前段に「言葉を交わさないと言葉の持つ影響力はわからないよ」というものがあるのかもしれない。

人との会話はあまりしてないですが、ツイッターではずーっと雄弁に言葉を重ね、様々なことについて書き散らしてきました。(その数17.8万ツイート)
その言葉に対して、何かしらの反応があったり、反応されなかったりといったことが当然あるわけですが、言葉による人に与える影響というものはあまり考えたことがなかったなと思います。
ツイッターで語ることはほぼ全てが放言であり、自分の中から出てきたものをそのまま出しているだけ。そのため、別に相手に与える影響といったものを考慮する必要はない。というのが根本にはあると思うけど。

言葉による影響というものが個人的に一番わかりやすい場面というのは、やはり仕事におけるものだと思います。
自分の言葉が相手に届くことで、何かが決まり、始まり、そして終わる。その流れの中で相手を刺激したらめっちゃキレられるし、感謝もされる。今まで「調整」というものをすることがあまりなかったのですが、最近やたらすることが増えたので、ここはだいぶ自覚的になりました。

ではその逆。一番わかりづらい場面というのはどこなのかというと、配信のコメントだと思います。特にかなりの人数が見ている配信だとその傾向はきっと強くなる。
相手に届く言葉の数が膨大なだけで、それは別に言葉の重みや力といったものが変わるという意味ではないんですが。
こんだけいるんだ。相手には読まれないだろうという精神はどうしても芽生えてしまう。そして、その精神を責める事は私にはできない。

言葉は銃弾に似ている。 一度放てば、取り返しがきかない。 外れるか、傷つけるか。

 というまた言葉があり、また

言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び回ったんです。

といった言葉があります。

※前者を受けて後者をそのまま捉えると、一発の銃弾から戦場となり言葉による銃撃戦が始まる感じになり、全員傷ついて死ぬエンドしか見えないですが、これは置いておきましょう。

言葉が言葉を呼んで場を作り、人と人が交わっていく。
けれど、もちろんその交わり方は良いものばかりではなく、互いに血反吐を吐きながら相手を殺すまで交わるというものもあります。

言葉は銃弾のように一度放ってしまったら戻す事は出来ず、進み続け、時には人に刺さり、その体内に留まる。こう考えると銃弾という表現はとても的を射ている言葉です。

相手の体内に留まる言葉が傷つけるためのものではなく、喜びだったり照れだったり、相手にとって嬉しいものであれば、それはとてもよいことだと思うし、できればそうすることが出来たらなと思います。
「言葉にしないと伝わらないよ」は好意的なものに対して使われるのが一番良いと思うし、そうであって欲しいので。

自分の放った銃弾の責任を、影響を、決して忘れる事なく、銃を放っていきたい。

この話はこの銃弾を放ち終わりとなります。