Happiness arises, radiating in vibrant hues.

『幸せが生まれ、鮮やかな色合いで輝く』ことを願う場所

誰かの幸せ祈ること

カフェインを飲んだら何かを書きたくなる病。

誰かの幸福を祈るということを、推し事してる時ってしがちだと思います。ただ、「こういう祈りって結局は呪いみたいなもんじゃねーか」というのもよく言われていることだと思います。

単に「○○がこの先幸せでありますように」と書くのが、呪いのようにも見えてしまうのってなぜなんでしょう。
そもそも誰かの「何か」を祈ること自体が呪いと言ってしまえば、それで終わりなんだけど。

祈り方を変えてしまえば、呪い感が薄まるんじゃないか? というのが、この記事の内容です。

そもそもなんで呪いに見えるかというところから考えてみましょう。
これはやっぱり当人(祈られる側)の意思が入らないという点になるかと思います。
祈る側の一方的なものであり、祈られる側が拒否しても勝手に貰ってしまう。
そういう構図がいかにも呪いという感じです。

だったら祈りの形を変えて、当人の意志が混ぜ込まれるようなものにしちゃえばいいんじゃないか?
そうすればちょっとはマシになる気がします。
そうしたときにパッと浮かんだのは下記の形です。

「推しが幸せでありますように」
⇒『推しが自身の望む幸せを得られますように』

こうすることで一方的な押し付け感は減った気がします。
個人的なイメージとして、単に「推しが幸せでありますように」とすると、祈る側の幸せの形が祈りとして反映されるような気がしてしまうので、それも回避できている感じがします。
周囲から見たら幸せに見えなくても、当人にとってはそれが幸せということは、多々あると思うので……。

祈りの中に当人の意思が入る余地を与えた形になり、呪い感は薄れたようにも思えますが、果たして本当にそうでしょうか?

この祈りは1つに見えて2つの事を祈っています。
①推しが幸せを得る
②推しが自身の幸せを望む
の2点が1つの祈りに詰まっています。


ここで問題になるのは②の方です。
この②って言ってしまえば、当人の意思に介入するような祈りなんですよね。
①だけであれば、当人への押し付けとはなりますが、そこ止まりになります。
当人の行動、意思までは強制しようとする動きは持ちません。

祈りの性質として、内容が具体的になればなるほどグロテスク、祈る側の欲望が強くなっていくという点があります。
当人の自由を望むあまりに、かえって当人への介入を強めてしまう悲劇。
それを考えると、祈り方を変えることはむしろしない方がいいのかもしれません。
どちらの祈り方にせよ自己満足であるという点は免れないんだけどね。

自分でどうにかできるなら、それは『願い』。
自分ではどうにもできないことなら、それは『祈り』。
最近読んだ本でそんな記載がありました。

自分ではどうにもできないことを神や世界に祈るんだから、呪いという側面を無しにして祈るのは、虫が良すぎる話なのかもしれないね。