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『幸せが生まれ、鮮やかな色合いで輝く』ことを願う場所

私達は時間の中で生きている (かがみの孤城を観て)

この記事はかがみの孤城のネタバレのみで構成されています。

 

2022年の映画納めをしてきました。
かぐや様とかがみの孤城を観てきたのですが、両方ともとても良い作品で、映画納めにぴったりでした。特にかがみの孤城はEDで気づいたら泣いてました。

良い作品の持つ力として、観た人に作品の感想だけではなく、作品を観て感じたものを語らせる力があると思います。まさにかがみの孤城がそんな作品でした。以下初っ端からネタバレを入れるため、多めに改行入れます。

 

 

 

 

 

 

 

 

この作品のメインの描写は、生きる時代の異なる中学生が孤城の中で、それぞれの境遇を知らずに同じ時間を楽しく過ごすというものです。この異なる時代を生きている同年代の中学生という点で、どうしてもやるせなさのようなものを感じてしまったのが書きたくなった発端です。

それぞれがそれぞれの理由で戦って(日々を生きて)おり、学校へ通っていない人間という点で共通しています。ですが、それぞれの戦いには大きく異なる点があり、それが時代の変遷というものです。

現代社会の良い点として、学生の間に辛い事があり、学校をドロップアウトする状態になってしまっても、それを受け容れる基盤がある。また、自分で知ろうと思えば選択肢はいくらでもあると気づくことが出来る点だと考えています。
もし、アキが生き方が定型的で生きる選択肢の幅が少ない平成初期の時代ではなく、こころと同じ時代を生きていたら、もう少し生きやすく、狼に食べられる状況にならなかったのではと考えてしまいます。

彼らは孤城へ来ることができ、孤城での時間を通じて日々の戦いを癒し、そしてどう戦うかを考えることができました。しかし、孤城へ来ることができなかった似たような存在は必ず存在していて、きっとこころのいる世界よりもアキのいる世界のほうが世界への再参加という点で困難だったのではないかと思います。

※90年代と00年代で2倍くらいのフリースクールの設立数の差があるようです。
 参考:公開資料 | フリースクール全国ネットワーク フリースクール実態調査

 

どうしようもないことではあるのですが、どうしても『あの時代ではなく、この時代であれば』を考えてしまう。14年という時間の流れで救われたもの、当時あれば救えたものを思うと、どうしてもやるせなさのようなものを感じてしまいます。