Happiness arises, radiating in vibrant hues.

『幸せが生まれ、鮮やかな色合いで輝く』ことを願う場所

I think that(雑記)

全てをぼやかして書くけど、ホント色々ありますね。
個が全体になるような展開はさすがに予想してなかったけど。

『推しは推せるときに推せ』という言葉は『推し』という言葉が流行り始めた中で生まれ、今ではデファクトスタンダードのようにみんなが持っているべき意識のようになっています。
その中で、まだあまり言われていない言葉ではありますが、『推しだけを見てろ』という言葉も見かけるようになりました。恐らく通常の使い方としては、「(ファンの行動に関するアレコレに意識を向けないで)推しだけを見ていろ」というものだと思いますが、今私がいる場所では「(運営の動きに惑わされずに)推しだけを見てろ」というニュアンスで使われる感じです。言葉のニュアンスが変わっていく事は数多あれど、こういう変化はちょっと悲しいね。

最近個人的に思うこと(タイトル回収)として、『推しだけを見てろ』だけではちょっと足りない部分があり、『推しが見せようとしてるものを観ろ』というものも必要なのかなと思っています。推しだけを見ていても、推しが意図していない受け取り方をして、その『推しだけを見る』という行為自体つらくなったりヘイトを溜めてしまっては本末転倒になってしまう。

とはいえ、他人の意図しているものを完璧に受け取り、それに対して求めているムーブを返すことなんて、神様でもないとできない。なので、ただの理想論みたいなものです。

『見ろ』を『観ろ』としているのは、言葉の持つ意味の違いとして、『見る』の脳死で受け取るようなものではなく、『観る』の意識的に言葉を受け取って自分の中に落とし込もうというものですが、その落とし込む過程で曲解が発生する可能性もあるので、それなら脳死で受け取る方がまだマシな気もするし難しい。
なんにせよ、受け取った結果として、見える形でネガティブをぶつけなければ、もうなんでもいいのかなという気もするけど。

ネガティブな感情や言葉は、残念ながらポジティブなものよりもとても強く、人の意識に作用し、広がりやすい。そして、何気なく放った言葉であっても、それは銃弾となってしまい、貫通せずに相手の身体に残り、毒を出してしまうこともあるので、言葉の力というものを、改めてちゃんと考えないといけないなと考えています。意識するのと意識しないのでは違うものがあって欲しい。という願いです。